リオ・ボニート移住地は入植60周年2018年11月21日 11:14

ボニート市街と移住地を隔てる山(サンパウロ新聞提供)
ペルナンブコ州の野菜普及に貢献

 ペルナンブコ州レシフェ市から約130kmのリオ・ボニート移住地が、今年で入植60周年を迎えました。同移住地は1958年、ブラジルの連邦移植民院と日本の海外協会連合会(現JICA)が共同で準備した移住地です。

 同移住地は、同州都レシフェ市への野菜供給を目的に開設されたペルナンブコ州最初の日本人移住地です。1958年にアマゾン移民の田辺氏ら3家族が入植し、翌59年に日本から野口、岩田、岡崎、内川、伊藤5家族29人、61年には炭鉱離職者ら9家族、全部で17家族が入植しました。現在は8家族が暮らしており、日本人会(田中エリカ会長)会館での集いも行われ、6月にはボニート市庁舎で入植60周年記念式典が挙行されました。

 61年に移住してきた佐藤忠恒さん(83、長野)は、「山の中に来て、食べ物も無いし、とにかく酷いものだった。その日を食べるのに必死だった」と入植当時の過酷だった頃を振り返ります。ボニート市街を見下ろす山の裏側に位置するリオ・ボニート移住地は当初、原生林が生い茂る場所でした。佐藤さんは、「大木を切り倒し、板根を焼く作業の連続でした」と昼夜問わず開拓に明け暮れたといいます。

 開拓を進める一方、63年には日本人会が発足。居住していた16家族計100人が会員になり、移住地内の交流が始まりました。交流が始まっても、話題は「食べ物をどうするか」ばかりで、生活の厳しさに変化はありませんでした。

 入植した当時、同地域では野菜を食べる習慣がなく、売れてもたいした利益になりませんでした。売れる農作物のトマト、カブ、バラ、菊、山芋などの栽培を始めるまでには試行錯誤が続きました。この努力で白菜などを同州に普及させ、野菜食文化形成に大きく貢献することになりました。野菜が売れ生活に余裕が出てきた移住地は、記念誌を発行、市内に日本庭園を造成、今年6月には入植60周年記念式典も行いました。

 移住地は現在、衰退時期に入ろうとしています。最盛期には25家族を数えた居住者も8家族に減りました。会館や移植民院事務所跡などは居住者が何とか維持していますが、後継者に悩まされています。日本人会は2世会長の時代に入り、運営方法、移住地への想いは1世とは大きな隔たりがあります。

 10年以上も日本人会の会長を務めてきた久保洋深(ひろみ)さん(79、広島)は、同地居住者の一体感が薄れていくと危機感を覚えています。同州で唯一、日本から直接移住者が入った同移住地も、大きな曲がり角を迎えています。